大己貴命は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と呼ばれ、神話の中でも「因幡の白うさぎ」はよく知られており、赤裸にされたうさぎを助けられた心のやさしい神さまです。
(一般には「大国様(だいこくさま)」と呼ばれ親しまれています。)
大己貴命は「古事記」「日本書紀」をみますと他にも多くの神名が伝えられています。
豊葦原の国(日本の国)を稲穂がたくさん稔る豊かな国に造りあげ、天孫に国をお譲りした神さまとして「
御祭神とご由緒
ご祭神
大己貴命 (別名:大国主命 ・大国様 )
また、農業・山林・鉱業・縁結び・医薬の開発・禁厭の法(鳥や害虫から作物を守る方法)を授けた神さまとして「
鎮斎せられること一四七〇余年
遠江國を見渡す本宮峯に
創祀は神代と伝えられ上代の事で詳らかではありませんが、延宝8年(1680)の社記によると、人皇第29代欽明天皇の御代16年(555)2月18日に本宮峯(本宮山)に御神霊が鎮斎せられました。後に、都より勅使が差遺せられ、山麓約6kmの現在地に社殿を造営し、正一位の神階を授けられました。
それ以来、年々奉幣に預り勅使が下向され、文武天皇大宝元年(701)春18日に勅使奉幣の際、特に十二段の舞楽を奉奏されました。 延喜7年(907)の延喜式では式内社に列せられ、中世には武将をはじめ朝野の崇敬が極めて篤く近世に至りました。
元亀3年(1572)の戦では、徳川家は御神霊を別所に遷し、願文と三条小鍛治宗近作の太刀を奉り戦勝を祈願した後、社殿を全て焼失しました。天正3年(1575)に勝利を得た徳川公は、御本殿の造営、拝殿・楼門を再建され、更に社領五百九十石の朱印を奉り、以降代々の徳川将軍家より、社殿の改造・修復料を寄進されました。
明治6年6月13日に国幣小社に列せられ、明治15年3月に再度の火災により御本殿以下建造物などことごとく失いましたが、明治19年に復興され現在に至っています。
平成17年には御鎮座一四五〇年祭が斎行され、「遠江國一宮さま」として崇敬され親しまれております。
小國神社の初見(宮内庁書陵部所蔵)
続日本後紀
周智郡や小國神社が歴史上初めて記録に見えるのは840年(承和7)。周知郡内の小國天神が従五位下を授かったことが「続日本後紀」に記されている。