社職

平安時代中期から今に受け継がれる

延宝八年の社記より

神宮大宮司坊城俊良謹書

平安時代中期の永保2年(1082)に、神祇官から小國社神主に清原則房が補任されました(朝野群載)。小國家系譜によると、清原氏は清和源氏よりでて当国に住し、小國神社の神主になったとあります。

江戸時代の神主の小國重年は、近世国学者として名高く、延宝八年の社記によると、社家32人・舞楽神人・社僧等は小國神主の支配のもとに奉仕していました。各々の社家の後裔は、今に現存しています。

社殿と歴史

時代背景と歴史のなかで

明治十五年の火災後、明治十九年に再建

当時の小國神社境内図

中古以来社領は、一宮の上の郷・下の郷、一宮以外の円田に薗田郷、森の太田郷・天宮郷の五ケ郷三百六十町を領していました。江戸時代には徳川氏より五百九十石の朱印を賜り、東西一里南北一里半の境内を領していました。(社記及び諸社寺御朱印御条目枢要摘書)

明治四年の上地後は、一部を一宮村に払い下げられたが、社殿近接地の払い下げを受けました。現境内地は三十万坪に及びます。

本殿は明治十五年の火災後、明治十九年に国費を以て再建されました。以前の三分の一の規模となりましたが、間口及び奥行三間二尺七寸・高さ四丈三尺。本殿の他末社・建造物等は、五十余数を具備しています。

明治15年 消失以前の小國神社楼門と社殿

現在も、境内一帯には丈余の神代杉が欝蒼として繁り、勅使参道跡も現存します。境内を流れる宮川の清流と風声相和し、全境内清寂の極致を感じます。